なんてコーナーが100円ショップに有ったら、ツッコミを入れながら、しかしその自問ぷりに興味深々で走り込むでしょう。
モノ余りと叫ばれ始めて久しい、我々の暮らしはやはり未だ高カロリー。
昔、思い立ってテントで暮らしたことがありました。四国を1周。
2週間振りに自宅に戻った、マつまり保障付きのぬるま外遊だったわけですが、そのときの感触は今も私の中で『これもそれもいらないじゃんショック』として残っています。
ただやはりそんな買い占め運動も犬にかまれたと思って忘れてゆくのですが、かまれ易い私のくせにこの焦りにも似た衝動はなぜか、折にふれ再来します。
そんなとき私はいつも、押入れをまさぐっています。
捨てるものに付箋をつけることは捨てられないものを絞り込む、探し当てる行為に似ているのかも。そうすると「答えなんてないんだ」と嘯いていることがどこかに餌を撒いて答えというやつを呼び込んでくれるかも、なんて期待もしちゃいますね。
話が逸れました。
地震が来るかもしれないのにひとはなんで便利を求めるの、モノを増やすの?と問うた私。「そんなの鹿児島なんてずっとそうだよ。」私の師は鹿児島の生まれ育ちでした。
いまも丁度、やっています
選別作業。
また使うかもしれない鼻メガネ、思い出の詰まった白ブリーフ。
捨てられないモノを増やしていくことはそのひとの人生の彩りを表すのですか?
それも半分。ただ、
結局、ハコに合わせてモノは増える。
それは冷蔵庫の中でも、外でも変わらないのかも知れません。
そう言えば思い出しました。自分が休日潰してしかも金払ってまでステージげなことしている理由の1。
『綿毛を飛ばす』
自分が死んでもハードディスクが死んでも自分の曲がメッセージがどこかで再現できればいいな。
嗚呼なんておこがましい。でも夢なんです。
とかほざいてる内にアラ秋なんですよね。綿毛の準備をしなきゃ。
かくゆうこの秋、自主企画が準備中も含めて4本。飛ばんでもええからせめて綿にはならんかしら。
と、着々、しています。
また言います。どうかお楽しみに。
余談ですが私がバイクでテントで四国を1周して間もなく、そのことを知らない兄は自転車でシュラフでオーストラリアを1周しました。
似てないと思いながらこんな変なところで似ている(四国とオーストラリアのかたちが)なんて思いました。