「…もういいかげん『の』の字を書くのは終わりにしたいの」
あまり知らない南の方に車を走らせて来た。晴れた6月の月曜日。唐突に、彼女は言った。
「それこそ毎日何も知らないで『の』の字ばっか書かされてさ、ばかみたい。」
たまに見せるドナルドの様な唇で、ああこれは不満なんだ、とすぐに分かった。
「だいたい『の』なんて、おっ、おわっちゃっちぇるじゃない。終点から始点まで注ぎ口を移動させること幾センチ…無駄よ!」
ときどき思う。彼女の方がよっぽどか彼氏なんじゃないか。その座標で数値化されたかの様な野田琺瑯の動きは、このカップルの不確かなベクトルを描いていた。
「『の』を書いて戻って、てなにこれ、これじゃ『の』じゃなくて…くす玉よ!割れたくす玉よ!」
そろそろ注文を決めなければ。繕った様な笑顔の店主らしき中年と何度も目が合う。
「…ねえ、だからお願い、NTTとは言わないわ、せめて『8』の字、ううんSOGOでいいの、自己完結させてよ、ねっ。」
彼女はおもむろに、目の前に『当たり前に置いてある』ミートスパゲティを、フォーク1本で器用に食べ始めた。
きっと彼女にとっては服や顔に走る鮮血なんて、それこそ本当に絆創膏で隠してしまえば、なんて言い兼ねない。微々たることだろう。
この料理が自分のプライベート・ゾーンぎりぎりで頬杖をつく、この男のために出されたものだとしても、彼女にとってそれは今はどうでもいい。今は。
彼女のそういうところが、嫌いだ。