日曜のこと。明日ではなくこのまえの。
空くじのない『春の嵐』こと春の嵐がやって来て、
私は、まどごしに風をながめて居りましたら
先日、『ざし』にした一輪が
アブラムシのしずくを垂れておりました。
それは正直、いやだなあ、と
なむなむ言い乍ら水で流しましたら
ふと、亡くなった祖父のことをおもい出しました。
花はいつまで花なのか。
猫の死体は猫なのか。
少なくとも花は『枯れ』ます。
最初から、わかっていたんです。
わかって、だからこそ敢えて、そのいのちをウチに連れこんだ。
死ぬに向かって生きている、とは仏様の談だっけ
そのときからずっと、終わりかた、というのを考えています。
そういえば、花の生け方愉しみ方、は数多あれ
捨てかたは聞いたこと、ないもんなぁ
買った店にクレームを申してみようか
刹那のたんいで花をやっているプロに敢えて能面で問うてみれば、なにか面白いが起こるかも、しれない。
もしくは本当にハッとするよなプロ意識を食らわされたり、して。
でも、こんな客…こまるよなぁ。
そんなことをかんがえ乍ら過ごした日曜日(このまえの)。
花屋に行くまでにふと出会った3人の賢者が、こんなこまる話を丁寧に聴いて、応えてくださいました。
そうこうしてる内に夜はふけて花屋もしまり、少しほっとした顔の私は花のもとへ帰ってゆき、写真をたくさん撮りました。
ことばに依りますがやはりこの花とのかかわりが
わたくし人間のエゴにまみれたものだと言うことに躊躇いは有りません。
では私がエゴしたのはこの話の、いったいどこからか。
アブラムシを溺死させたからか。それとも花を買って『生ける』などと洒落た時か。買おうという閃きから既に始まっていたか。
花を花として、意識した人間に生まれたことがそもそもそうなのか。
日曜のことを火曜に書いているので、そしてまたすでに その姿は写真とちがいます。
さらに放置して土曜に追記してるので、花びらは音もなく音をたて外から内へ、思い出になってゆきます。
老衰で亡くなった母方の祖父は
たくさんの家族に囲まれて、自宅で逝きました。
すべての皺がその皺の賜物たちにより拭われて、しずかに逝った祖父の、実はその内に嵐があった。質量保存の法則でいうところの命のかたまりが。
さてさてそんなこんなで約いっ週間。
古い包丁ってどう捨てればいいの、と調べてたら
包丁(刃物)供養、というのがあるのですね。
なんだこの悩み、全然普通だったんじゃん。