血が薄まる!

2015/04/19

先日
被爆体験の『語りべ』をヒロシマで養成、という報道を聞いた。
戦争を語れるひとがいよいよ、居なくなっていくなあとかねてから思っては居た。
世界、どころか自分とその周りを見るだけでも、まだまだ戦争から学びきれてないのかな、と痛感させられることは多い。
中一の夏休みに訊いて集めさせられた体験談も、自分はもう、あまり覚えていない。
いやそれは自分が寝坊しただけだったかな。
月並みだろうが、他者や世界を意識するきっかけが『戦』だ、なんてのは気分が悪い。

ただ
ここへきて戦争に、新しく思いを馳せる。
まず、どうやってもそれは自分の体験ではないということ。
自分の体験としてはいけない、言葉尻で言うとすべて「〜だったそうな」「〜だと思います」としなければならないこと。
このことを大きく捉えたい。
好きな曲をコピーするのではなくその人のルーツになった音楽をコピーした方が、時間はかかるがきっと長持ちするだろう。
ニセモノ、二番煎じだからヤメロ、というのではなくて、もしかすると、他力本願的はたまた綺麗ごとの様だけれど、
戦争を一次的に語れる人、最後の一人が居なくなったとき、人は戦争を基準に平和を考える事を止めなければならないのではないか。
「こんなに悲惨だった、だからやめよう」はもうスルメ尽くされたとして、戦、争いと言う選択肢がそもそも存在しない世界に。
安く言えば卒業。窓ガラス壊して卒業。

時間はとまらない。それは皆分かっている。
時間は新しい客に会わせてくれ、古い客を隅に追いやる。
だから私は飲み会に遅れたときもめげない。寧ろ楽しい。
親戚の中で最年少、ちやほやされてきた私が、従兄弟や、兄の子に嫉妬を感じるのはそのせいだろう。私のハンケチはすべて円形である。

記憶はそう残らない、だから私たちは新しい記憶をしまうスキマをもつ。
祖母の居なくなった祖母宅はもうじき、近所のガキの心霊スポットになるだろう。
そうしてそいつらのエロ本の隠し場所になり、健全な成長に貢献出来たら。

さっき聴いたフレーズ、しまい忘れて消えて、そのうちにきっと消えたことも忘れる。
音楽は無情だな。でも日常だ。

かいこのままでは、空は飛べない。