主張をする、
と
主張がある、
の違い
そんなことを、ここのところずっと考えていた。いやいる。
どちらもその内容と強さが掛け算をして、受け取り人で割り算をするから、ドレがいいとか一概には言えない。
デモ一概に言わないくらいなら私など文の素人が書いても仕方ないので、意識しているのは実は後者であることを自白する。
アンティーク好きな友人Qの部屋では、使っているスプーンまでアンティークであったが、煙たがりの私が涙をにじませなかったのはその古道具たちが何故か、主張をしてこなかったせいではないかと思った。部屋というのはけっこう個人的な空間だから、その意志でもって作りこまれたものがひとに受け入れられるというのはそれがマイルドか、そのひとに合っているかだと思う。
思うに、Qは過剰な主張(前者)をしていないのだ。していても、後者を越えていない。
たぶんその必要が無いから。
つまり、あくまでも先ず自分の為にアンティークが有って、私が受けた印象は、そのお裾に過ぎない。
これはお金がないと募金ができないときの、アレに似ている。
自分の体調悪くてもひとの看病しちゃうような人は別途、お話をさせてください。
ほんで私、歌を歌っているもんでこのことも結局は自分の『表現活動』にフィードバックしてくるんですが、このスタンスって結構、イケてるんじゃない!?
と思ったのだ。
だから最近、ずっと考えていた。いやいる。
別に、いわゆる『表現』云々に限ってでなく、日ごろの対人や広くいえば対自然、環境とのつきあい方にもこの、そっと寄り添う感じ。
ひとつの到着駅のように、思えるのです。
子ども、思春期のころは『親切』にひとつのステータスを感じてもいたから、いやむしろそればっかだったから、他人を理解できないで自己理解などできない(先ずは何事も他者様から)と言っていたのだが、今となってはやっぱり、『自分』ありきの外世界、という気がしないでもない。それだけ、生きてきたこれだけが自信をつけてくれた、ということなのだろうか。
いっときは、いっときの台風2号のせいでこのまま秋が来てしまうんじゃないか、モウ日本には夏が来ないんじゃないか、なんて安堵したりもしたが、ふしぎですね、こう雨に打たれているとアラいやだ、やっぱり夏の準備を、している。
なくなったアレを、探している。
これ
直火派なものでして。