消える電球

2013/02/12


今がお買い時!

しっかし
その存在の、一種、不器用さ、といったら。

ところで
死に向かって正を全うする、というひとつの宗教観よろしく、
もしも自分の発明が既存の常識を覆すものなら、
それもいつか非常識視され得ることは、人は予め認識しているものなのだろうか。
この愛は家族は続くものだとやっぱり信じていたいし、愛についていえばそう、信じてもらって初めて成り立ってるようにも思える。
愛と商工業は違うのかもしれないけど、今や愛と商工業には互換性すら有るし、何より私たちがその境界に鈍感になってきたもんなあ。

ちょっと、電球の弔いに書き出したテーマと外れてきたけど、
つい先日も新築と中古の物件をLRにみながら、そんなことを考えていた。
この階段は家の中心に位置し、開放的な構造になっているから家族の集いの場として三次元的に機能します。
大きなひと間のこども部屋はこの間仕切りをつかうことで、ご兄弟にも対応できます。
使いやすい最新のキッチン。街を彩るアンティーク調の街灯。
門の脇のポストは差込口がさび付いていて呼び鈴も断線してるから、結局玄関まで入る家。
一部分だけ妙にログハウス風な丸太組み、でも今は使わなくなったスキーとキャンプの道具の墓場。
義父母が息子に買ってくれたブランコに干された、毛足の長くて不便な絨毯。
魚のきえた水槽。自然にのまれた公園。

先の『観』は、そりゃゴールに向かってスタートだ!とも言えるけれど、
使い方を間違えるとちょっとした虚無感のフィルターを生活に落としかねない。
生死は科学できるからまだいいとして、せめて枝葉の部分だけは。終わらない歌を歌いたいし、歌い続けることで枯らさずに居たいものもある。あってもいい。
最後かもしれない寒さのベランダで洗濯ものを干した後、レフ型の太陽に暖をとりながら、そんなことを考えていました。