Tシャツ

2009/09/19

Tシャツにこだわりが有った。

否今だって有るのだろうが、
私にとってのTシャツ年期は、
この場をお借りして述べさせてください。

【第一期】1996~1999年
ピタピタTシャツ全盛期
…文字通りピタピタ、だったんである。所謂あめかじ古着を中心に。
【第二期】1998~1999年
思春期につき、模索期
…お風呂帰りとかの理由でなく、裏返しで着たり、切ったり貼ったり縫ったり塗ったり。刷ったりもした。
【第三期】1999~2001年
少し早めのゆとり期
…サイズがでかくなる。
【第四期】2001~2007年
布ごときに哲学期
…再びピタピタを好む。「男は背中で語るもんじゃい!」を胸に、否せなかに、バックやサイド、即ち前面以外に(も)プリントの入ったものしか求めなくなる。
【第五期】2008年~現在
鎖骨期
…もうイイ歳なんだし、控える意味と、逆にプリント以外の主張(意匠、又は着る人自信)を立てる意味で無地になる。

現在、鎖骨ぐらいは出しても良いのでは、大人なんだし、と思いはじめている。
さて。
ずいぶん長いこと、『その他』の部分で飾ってきた。
はて。
ほんとうは、飾って、でなく、
繕って、きたのではないか?
最近思う。
何をそんなに守ろうとしてるのか、言葉やその他で武装して、芯が見えなくなってるどころか、自信で勝手にがんじがらまっているのではと。
最近よく言われる。
お前はダレなんだと。恩師(先の『第一期』にあたる頃の)に言われた、
「器用そうに見えて不器用だったよね。」
今もそうです。不器用なのは10年掛かって認めてきたけど、
無意識に器用ぶってしまうのは…ナカナカね。
そうしてこうして振り返るようにして、脱ごうとしてみるんだよ。
そしたら幽霊みたいに、服剥いだ内には宇宙が有ってコスモがひとつ。
自分なんてないんだよ。
着すぎて、蒸れてとろけて、どっかいっちゃった。

今期は実にしんぷるだ。
無地などころか、露出まで強まっているのだからな。
だからきっとこの間に、鍾乳洞のように、芯ができてきたのだろう。
とも思う。
でも、
臆病でずる賢い自分のことだ、恐らく実体の無いはだかの上に、うっすら肌着を着た、だから見せても大丈夫、としただけかもしれないな。
とも思う。防御線を下げたダケなのだと。

ファッションなんて無責任なやつだ。
着飾る以外の仕事なんか、初めから遠慮してくれてればよかたのに。
そしたら別のもんで飾ってたのだろうけど。