愚痴やなきごと
よりも改善策をはなしたい
ということを標榜しているが、
じゃあコレは愚痴に大差ないんじゃないか…と鏡のまえで口つぐむ。
おんな友だちが
ホストクラブ(なるもの)に行ってみたい(ぞよ)
というので同伴。
御多分にもれず、わかくまぶしい夜の太陽たち。
キャバクラの嬢たちが客におおい…というはなしになる。
仕事の愚痴をよくきくのだという。
わたしもラウンジにつれられたことはあるが、ではわたしがそこではなした愚痴なり改善策は、嬢たちの愚痴のタネとなって、いまここに循環した。
磯野・フグ田家総出でふろに入れば、ほらみんな背中きれい(スペースの懸念あり)。
そんなわたしの汗をつゆしらず、15分の会話はつづく。
「じゃ**くんは仕事の愚痴を、どこで言ってるの?」
この店の仕舞いは28時。そこからいける酒場は片手しかない。
「自分は…とくに誰にも話さないっスねぇ」
ほんとうか?そんなもんでだいじょうぶか?(まぁまぁ改善提案したぞ?)
うすくなった水割りを、じっとみている。
痛みも怒りもかなしみも、(そこに願いがあれば、)リレーの中で希釈されてゆくのか。
それもそうか。コトがおこったのは一人目だとすると、それ以降の当事者性って『愚痴をきいた』ことだもんな。
ではもしも**くんが、朝までやってる店へかけこんだら?
そこのマスターがこのまちでいちばんマスターということになるではないか。
大きなまちでは朝からの店もあるので、モルトのかおりは残りつづけて、
べつにぃ、麦茶だしぃ。
といえるレベルにもなる。
でもこのまちは、
ここでいったん、
おやすみなさい。
しごとよ続け。
引き継ぎをつないでゆけ。
狂乱の煙を、キャッシュフローを、意味から意味の再生産をとめるな。
うすくなったけどこの水割りを、わたしはまだ水割りと呼んでいる。
「おかわりですか?」いいえ、みずわりです。